――十六世を襲名されて十年の歳月が流れましたが、この間どのような思いで過ごしてこられましたか。
この十年は、早いような、長いような、不思議な感覚でした。2015年の暮れに十五世の父が亡くなり、翌年に豊斎の名を受け継いで早十年が経つわけですが、はじめはとにかく、わけがわからぬまま、がむしゃらに駆け抜けてきました。医師より父の余命が告げられ、自分が代を継ぐことを現実のものとして実感してから、やるべきことを父と話し合いながら順番に進めていきましたが、そのひとつひとつが慌ただしく過ぎ去っていきました。数年の時が経ち、襲名展なども落ち着いて、やっと慣れてきた頃にコロナ禍がやってきて、また不安な日々を過ごしました。今になってようやく、これまでの自分の歩みを振り返ることができ、十年経っていたことに気付いたような感覚です。
――長男として生まれ、この窯を継ぐことを決意するまでの道のりはどのようなものでしたか。
十四世の祖父や父が窯場で仕事をする姿を見て、将来はやきものに携わるのだろうとは思いつつ、できるだけ距離を保ちながら過ごしてきました。大学に進学し、就職活動の時期になって改めて自分のやりたいことを考えた時、これまで本気でやきものをやろうと思ったことがなかったことに気付きました。父も私の進路は気になっていたとは思うのですが、生前一度も「跡を継げ」と言われたことはありませんでした。いろいろと考えた末、一度は一般企業に就職しましたが、距離を置いて初めて自分の家業と向き合うことができました。四百年にもわたって代々が窯の火を守り続けてきたことに改めて誇りと畏敬の念を感じ、今しかないとの覚悟で家に戻ることを決めました。

――宇治に戻り、一からやきものを学ばれたわけですが、どのようにして今の土台を築いていかれたのですか。
やきものの基礎は、陶工訓練校で学びました。土の作り方、釉薬の配合など、先人たちの積み上げた知識の集積は大変勉強になりましたが、技術は自分自身で会得してゆく他ありません。訓練校に通い始めた頃、夜に家に帰り轆轤(ろくろ)を練習していると、祖父が隣の部屋からガラガラと戸を開けて私のもとへやってきて、おもむろに轆轤をひくところを見せてくれたことがありました。何かを語るわけでもなく、形のあるものをつくるわけでもなく、ただ土をのばすだけだったのですが、「土ってこんなにも滑らかにのびるものなのか」と驚いたことを今でも鮮明に覚えています。それと同時に、朝日焼の「型」はこのようにして受け継がれてきたのだと納得しました。
私が訓練校に通っている間に祖父は亡くなったため、仕事として直接教えを乞うたのは父ですが、祖父と父という二人の豊斎を知っているということが、自分の作風に大きく影響しているように思います。最初期においては、父よりも祖父寄りのイメージで作品を作ってきて、父が亡くなってからは反対に父寄りになってきた部分もあり、二人のエッセンスが今の自分を形作っていることを感じています。

―― 「祖父寄り」「父寄り」とおっしゃいましたが、それぞれどのような作風だったのですか。
祖父の作風は一言で表すなら「剛」です。粗い土や釉薬を好んで使っており、箆(へら)削りも大胆でした。ただし、それは奇をてらったものではなく、一碗の存在感を突き詰めた結果の産物だと思います。一方、父は「柔」の人で、「茶道具はひとつで完結するのではない」とよく口にしていましたが、取り合わせの中でひとつの道具だけが主張しすぎることのないよう、調和を重んじる柔らかさを大切にしていました。祖父とは言葉を交わしたわけではないので、祖父の想いは父の言葉として聞いたわけですけれども、やはり作品を見るとそう感じますし、それぞれの時代の空気も影響しているとは思います。祖父のように戦前戦後は気骨のある人たちが多かった時代ですし、そこに比べると父のほうが柔らかくなっていて、さらに今の私たち、そしてその次の世代では大きく変わっていくでしょうから、それぞれに「今」の時代の空気を背負ってやっているのだとは思いますね。

――そういった「今」の茶陶を担う者として、茶道具を制作する際に最も大切にされていることは何ですか。
茶事・茶会の取り合わせにふさわしい伝統的な造形に倣(なら)うことや、実用に適った様々な決まりごとを意識しながら、「茶味がある」ものを作りたいと強く願っています。私にとって「茶味がある」というのは茶の湯の営みの中に身を置いている方々の所作や取り合わせ、稽古場や茶会の雰囲気などを体感する中で、理屈を超えて「面白い」「良い」と感じられる共通の美意識のようなものです。魅力のある茶道具というのは、ただ一人の感性で決められるものではなく、各流儀のお家元をはじめとする宗匠方の美意識を中心にして、茶のある場所に身を置く茶の湯者たちによって形作られてきました。そういった茶の湯の根底にある部分を意識して日々作陶に取り組んでいます。
一方で、その「茶味」の中心ではなく、あえてその「周辺部」、つまり伝統の枠から少しだけはみ出すことも大切にしています。「茶味」の中心を掘り下げていくことは当然意義のあることですが、私は「茶味」から少しだけはみ出した部分にこそ、現代ならではの面白さが宿ると考えています。

――現代の朝日焼として、ご当代の代名詞ともいえる「月白釉流シ(げっぱくゆうながし)」も、「茶味」の周辺部への探求から生み出されものなのですか。
そうですね、「月白釉流シ」は私自身の歩みとこれまでの朝日焼の歴史が交差する中で徐々に形になっていったものです。窯の中は前後左右それぞれの場所によって温度や空気の流れが異なり、襲名前は朝日焼の代名詞といえる「鹿背」や「紅鹿背」がきれいに出る箇所は父の作品を優先して焼いていたため、私には与えられたそれ以外の空間を活かす工夫が必要でした。そうした中で「火前(ひまえ)」(薪をくべる焚き口のすぐ近く、最も炎が直接当たる場所)で作品を焼いていくうちに、祖父から父へと受け継がれてきた「月白釉」が美しく発色することに気づきました。この釉薬で……
